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広済寺に伝承される歴史と寺紋「葵」の由来

加州廣濟寺の創立 

    長享2年(1488)加賀の一向一揆で冨樫政親が自刃して後、加賀門徒は本願寺に善知識(門主)下向を願い出ました。
    これを受け、八代蓮如上人の命により、九代実如上人の弟子、祐乗坊(江州武佐廣濟寺十一代厳誓坊祐念の次男)が、文亀元年(1501)3月15日、両上人の名代として加賀に派遣されたのが本寺の始めです。 
    加賀下向にあたり、祐乗坊は実如上人御真筆の「従親鸞聖人至実如上人の銘」「十七箇条制禁の御書」「御俗姓御文」と、実如上人裏書の「方便法身尊影」を授けられました。

御山御坊の看坊となる

    加賀の本願寺門徒は、延徳3年(1491)仏徳讃嘆のため山崎山(今の金沢城二の丸跡地)に草庵を建立し、これを「御山の御坊」と尊称しました。
    御坊には下向した祐乗が看坊(御坊を統轄する役職)として滞在し、次第に寺としての体裁が整っていきます。 金沢廣濟寺はこの祐乗を初代とします。
    それから御山御坊は相次ぐ争乱により廃絶の危機に追い込まれましたが、天文年(1546)に加賀における本願寺の中枢統制機関として再建されます。その際、十代証如上人より木仏本尊等を下付されました。
    祐乗坊は、法宝物を護持しつつ日常の仏事と教化を取り仕切りました。そしてその法灯は、二世祐念、三世祐盛へと受け継がれました。

御坊陥落と内川の里 

    「石山合戦」の最中、織田信長は柴田勝家に加賀を攻めさせました。勝家は越前から軍を進め、先陣は佐久間玄播盛政でありました。
    その時、御山の城代本多正信らと門徒数万の仲間が、身命を惜しまずに戦いました。如来より賜りたる行、南無阿弥陀仏の喚び声に順っていく心一つをたのみとし、鉄の結束を示したのです。しかし天正8年(1580)3月、ついに御坊は陥落しました。
 御山御坊を退去した三代看坊祐盛、四代祐玄は内川郷の山中に小庵を営み、山川・別所・小原・平栗・新保等の門徒と共に本願寺の法灯を守りました。
  御坊陥落後、御坊跡には佐久間盛政が入城して「金沢城」とこれを名付けますが、わずか三年で城主が前田利家にかわります。信長亡きあと、後継問題で柴田勝家と羽柴秀吉とが激しく対立し、賤ヶ岳で両軍が激突しました。結果、柴田勝家側が敗れ、その際に甥である佐久間盛政は捕らえられ、その後処刑されました。そして秀吉から加賀二郡が与えられた前田利家は金沢城へ入城し、これを「尾山城」と改名します。
              
武佐の御忌に蛇が詣る 

    五代祐益の時、加賀藩三代藩主前田利常公より安江郷(現在の尾崎神社のうしろあたり)に寺地を賜り、廣濟寺を建立しました。ところが、大火に見舞われその大半を焼亡してしまいます。
    次いで寛永13年(1635)現在地を賜わり、今日に至ります。
    この時以来およそ400年、毎年3月の初めに蓮如・実如両上人の追弔法要を営んでいます。そこで御坊から伝わる宝物を開帳し、各宝物の因縁話を伝承しております。金沢の人々はこれを「武佐の御忌(ぎょき)」と呼び親しんできました。
    石川門の外の百間堀上に御坊遺跡「お茶所ヶ井」があります。
    その昔、当寺の侍女(おちよぼ)は朝夕に仏様にそなえる水を汲んでおりました。御忌には、おちよぼが雲を呼び雨を降らす蛇体となって参詣にくるため、昔から「武佐の御忌には必ず天気が荒れる」と伝えられています。

葵の紋を家康公より拝領

    江州(滋賀県)武佐廣濟寺十三世安休房は、浅井長政の異母兄で、本願寺十一代顕如上人とは乳兄弟でした。安休は加賀一向一揆の際、顕如上人と信長公の意向を受け、御山御坊にて一揆の平定に尽力しました。
    また天下人となった徳川家康公は、江州に帰った安休の一族を大変厚遇しました。小督(長政の娘)を秀忠公の嫁としたことで、廣濟寺とは姻戚の関係になったのに加え、不思議な縁で安休とその娘たちが徳川家に大きく貢献することとなったからです。
    安休の娘「感」と「武佐」は、御三家水戸藩の初代徳川頼房公乳母としての任を果たしました。特に武佐は、頼房とその側室久子の長男(高松藩初代藩主松平頼重公)と次男(水戸藩二代藩主徳川光圀公、俗にいう水戸黄門)の命を守り育てた養い親だったのです。
    頼房は、久子との子を水に流すよう武佐に命じました。「第一の寵妾」お勝の機嫌をそこねることを気にしたからです。しかし武佐は自邸で久子をかくまい、子を産ませました。そしてこのことを頼房に隠し通すため、長男は一時、江州廣濟寺で育てています。やがて武佐が嫁いだ三木家は、水戸藩の家老に取り立てられました。
    そんな武佐の父安休は、よく家康公の話し相手になったといいます。生い立ちや娘の事、天下世情の動向、軍略について話をしたと伝わります。
    このようにして家康公との親交が深まっていく中で、安休は腰刀「村雨」、「岡崎」の姓をいただき岡崎家初代となります。さらに葵の紋を家康公から直接頂戴し、本家廣濟寺では葵の紋を用いるようになります。のちに重要な儀式では松平頼重公よりいただいた葵御紋の幕を使用したとも伝わります。
    こうして安休が家康公より拝領した葵が金沢廣濟寺にも受け継がれ、寺紋とするようになったのです。

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